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明治大学
大磯駿台会

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百合道子
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第14回 文化講演会&コンサート

  日時:2018年10月27日(土) 13:00 開場 13:30 開演 
 場所:聖ステパノ学園講堂 「海の見えるホール」
 (東海道線大磯駅前 ステパノ学園

  第一部 13:30 ~15:10 
演題:「源頼朝の挙兵と大磯」  
副題:≪大磯丘陵と鎌倉古道≫
講師:坂本行弘氏

講師プロフィール
 元県立大磯高校教諭
 元大原専門学校講師
 元神奈川大学講師

 第二部 15:25~15:55                源頼朝(web掲載資料から)
「歌と語りのコンサート」
出演:百合道子(ソプラノ)、添田千恵子(ピアノ)
主催:明治大学大磯駿台会
後援:大磯町

交通の発達していない鎌倉時代の移動は大変だった。
源頼朝の軍勢20万騎が鎌倉から一日で当地大磯の国府へ移動し、宿泊したと鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」 に記述がある。14回目の今回は長年にわたり、郷土の歴史を研究されてきた 元県立大磯高校教諭の坂本行弘氏を招いて通過地点の問題点などを語って頂きました。
第二部は毎年恒例の百合道子さんが添田千恵子さんのピアノ伴奏で歌を歌いました。

坂本行弘氏の講演要旨 

 A. 花水川を渡る
 
整備されていない東海道の移動。花水川は歴史時代に2度の改修があった。

① 慶長15年(1610)、現在の古花水川の流路になった高麗山山麓東端は500万年前に隆起した岩が多く分布していた。現在も岩山関連の地名が大磯に残されている。

「三っ岩」(海上から見えた三つの大岩、)「岩崎」(大磯駅前岩崎邸を囲む石垣に使用)、 「石山」と「龍頭岩」(善福寺境内に残された高さ2m以上の岩山)など。三っ岩から曲がった川は古花水川まで全面が水面で覆われ「あしば」と言われ、あし・よしに埋められた水面であった。

②寛延3年(1736)、宝永の富士山噴火で上流に堆積した火山灰は30cmにも達した。花水川に棄てられた火山灰で河床が埋まり下流部では洪水が頻発した。幕府は外様大名に銘じて現在の流れのように約300mを直流に改修し現在の位置に花水橋がかかった。  

③鎌倉時代は現代の平塚宿の薬師寺・阿弥陀寺から南へ丘陵を南下して黒部宮で「唐河原」 へ渡った。黒部宮付近の地名に「越場」が残されている。また、頼朝は安産祈願を黒部宮で祈願している。後に黒部宮付近は波の浸食が激しくなり現在位置の春日神社へ移動した。

④「更級日記」は父の赴任地・上総国から京都へ戻る途中で作者(菅原孝標の娘)がこの付近を描写したくだりがある。日記には「あたりはなでしこの多く咲く土地で、もろこし(中国)の原っぱに(やまと)なでしこの花が咲き乱れるとは面白い、と平安時代を生きた当時13歳の少女の感想が記されている。また、阿仏尼も唐土がわらを渡っている。

B. 鴫立沢川は伊勢講船の湊であった
関東大震災は大磯周辺に大きな隆起をもたらした。 約100年前大震災の隆起量でも大磯の隆起量は2m近い。最近の地震学では地震の形に大正型と大磯型が研究されている。大正型は超巨大地震で800年に一回の地震で隆起量は2m、大磯型は100年に一回で隆起量は0.3~0.9mとされている。

西行法師が大磯を通過して以来の大正型は一回、大磯型は8回として合計9.2m近くの隆起量を推計できる。現在の鴫立沢の位置は海岸海水面の高さになる。10m近く水面を降下させると大磯小学校南にある「鴫井戸」付近までになる。

白山神社付近にも海が侵入して茶屋町の古い地名「石舟町(伊勢講船の湊)」の伝説も浮かぶ。左岸は小学校付近まで2.5m の崖、右岸は当時の台町の巨大な砂丘である。旧街道は左岸を北上して左富士の渓流を御岳神社南岸まで船でも上れた。

照ヶ崎で拾われた「光輝く仏像」は御岳神社まで運ばれた。しかし、神社にはお預かりを断られ神社すぐ下の鴫立沢川縁の家に預かられた。そのお宅は宮に代わって預かったので「宮代」と言われた。今でも宮代家地所が御岳神社下にある。また、江戸時代に徳川幕府の東海道整備で現在の東海道となり、20mの旧東海道は裏道となり「裡道」と呼ばれた。「裡」とは「裏」の俗語と辞書にある 。

C.余綾(よろぎ)軍団は万台(番台)に駐屯した

正倉院文書(天平10年・738年)に陸奥国から摂津国へ浮因(アイヌ人)の送り状に余綾軍団と大住軍団長官が付き添い駿河国まで移動したことが記されている。二つの軍団の指揮官の位から軍団の規模は千人と判る。余綾軍団は万(番)台に駐在して箱根以東の東国を大住軍団とともに守っていたのであろう。10日勤務で非番には畑仕事にも従事した。余綾郡衙には軍団の役所「番場(馬場)」も置かれていた。

中井の中村氏の祖先は平安時代に鎌倉の笠間付近に住み押領使であった。押領使は令外官(正規の役職外)だが9世紀後半から盗賊などを平定するために置かれ制度化された。  大住国府(平塚四宮付近西側)から余綾国府へ国府が移動した。大住国府は相模川東岸から西側を支配していた大庭御厨の衰退と中村氏の役職であった押領使は番台とも関りがあった。

天養年間(1144年)に鎌倉に住んでいた源義朝(頼朝実父)は三浦氏、中村氏らを伴いおよそ1000騎の軍勢で関東平氏の中心大庭御厨へ鵠沼から侵入し殺傷事件を起こした。
事件以後相模川周辺東側に勢力のあった大庭氏国府勢力は衰え、中村氏一族(中村太郎は中村、二郎は湯河原、三郎は平塚・土屋、四郎は二宮、娘・桂は岡崎)に張って相模西部と三浦半島を支配していた。御厨乱入以後国府が余綾に移動した。余綾郡「番台」「馬場」も中村一族の支配下であった。凡そ40年後(1180年)に頼朝は中村氏勢力下の余綾国府へ大軍を進駐させ、25名の論功行賞を国府でおこない、また、政子の安産祈願も行った。

D.頼朝は中村湖を渡ったか

「中村川」は1498年の東海大地震で海岸の約20mの砂丘が切れて湖でなくなり川となった。古くから酒匂川からの堆積で大磯中学校付近まで高さ20~23m位の砂丘列が覆っていた。この時の地震は浜名湖も切れて海とつながり海水が流入し「今切」という地名を残している。中村川では下流部を「押切」という地名が残されている。突然の湖底の肥沃地の出現で周辺の部落の人々は我先に湖底の土地を奪い合った。中村川下流部には入会地が非常に多く分雑に入り込んでいることから、中村湖の存在を確信した。

また、湖周辺の地名に池之端・池尻・小舟・舟取場が残されている。海抜20m付近の等高線周辺である。また、舟代官と言われる「船津」家が存在している。先代の船津さんも舟代官職の家柄の書付で証明していた。頼朝の軍勢が海岸砂丘を国府津へ進軍することは砂に阻まれて不可能だろうと思われる。中村太郎の家を経由か沼代から下曽我へ進軍したのであろう。沼代通過の場合は湖を通過したであろう。「曽我兄弟の仇討」で名高い「富士の巻狩り」の移動も頼朝とも関係して興味のあることだ。       

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(文・佐藤邦康)

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