海の見えるホール
 

活 動 履 歴

 

 

文化講演会:2010年10月3日(日)13:30開演 (入場無料)

場所:東海道線大磯駅前「海の見えるホール」にて

講師:大路和子(おおじかずこ)氏(作家)

演題:「元勲の妻たち・その愛と苦悩」

主催:明治大学大磯駿台会
後援:大磯町

 

大磯駅から国道1号線にでて小田原方面に行くと、東海道松並木がある。
通称「元勲通り」のほぼ中ほどに明治の元勲・陸奥宗光が晩年を妻の亮子と過ごした屋敷がいまでも保存されている。
今回は、2006年に新人物往来社から「相思空しく、陸奥宗光の妻・亮子」を
出版し、元勲の妻の愛と波乱の生涯を描いた著者の大路和子氏を招いて講演会を行った。

     陸奥宗光 天保15年(1844)~ 明治30年(1897)

       陸奥亮子 安政 3年(1856)~ 明治33年(1900)

今日は良いお天気に恵まれ、たくさんの方々にお集り頂きまして本当にありがたいことと思っております。
ここ海の見えるホールはカーテンをあけると燦々と輝く海が見え、天下広しといえどもこんなにいい所はないのではないかと本当に感動いたしました。今回の講演会のことで明治大学の大磯駿台会の方々に大変お世話になったことを厚く御礼申し上げます。


明治の元勲で有名な陸奥宗光は時の総理大臣・伊藤博文に命じられ、妻の亮子とワシントンに公使として派遣された。右の写真は当時の「ワシントン社交界の華」と有名だったころ撮られたもの。

亮子はもともと武士の娘。江戸幕府崩壊により苦難の道をたどったが、陸奥の妻になることにより、夫の活躍を陰で支え、新しい世界で希望に満ちた人生を生きていったと思います。
今日は、その美貌と聡明さで陸奥宗光の生涯を彩った亮子さんのことを中心にお話したいと思います。


出生から陸奥との出会いまで


今の東京・新橋の土橋付近に金春太夫の屋敷の後にできた柏屋へ奉公にでて、踊り、三味線、常磐津、江戸小唄、清元のおけいこ。覚えが悪いと竹の尺指しで叩かれ、泥沼稼業と言われる芸者の修行をしながら下働きを3年、12歳で半玉、17歳で芸妓になる。芸名は小鈴(こかね)だった。

一方の陸奥は徳川御三家、紀州藩の勘定奉行や寺社奉行に昇りつめた家柄の子息。
それに引き換え、亮子は20石の軽輩の幕臣、山岸家の添機を母にし、旧播州龍野藩の江戸勤めの留守居役、200石取りの金田蔀を父にしてうまれた妾腹の子だった。

最初から身分が違っていたので、どのようにして陸奥の求愛を受け入れたのか好奇の目で見るものも多かった。
新橋では男嫌いの評判をとって身持ちは固かったが、陸奥にはひそかな恋心を抱いていたといわれる。

花柳界に身をおきながら自分を守る術を心得ていた賢い女性だったのだろう。
陸奥が結婚を急いだのは先妻なきあと、幼い2人の子供を使用人任せにしておきたくはなかったからだ。


薩長藩閥政治の中で何の後ろ盾もなく、孤軍奮闘している陸奥の悔しさを亮子はしっていた。芸者をしていた明治5年(1872)、後添えとして宗光の妻になることを決意した。


明治6年(1873)陸奥宗光と結婚、17歳。
宗光と先妻の子供の広吉、潤吉と亮子の新しい生活が始まった(右の写真は当時の宗光)。そして亮子には宗光との間に女の子が生まれ、隅田川の近くにある清澄町から名前を取って清子(さやこ)と名付けた。

鹿鳴館の華、ワシントン社交界の華

日比谷山下町にあった旧薩摩藩の別邸(8000坪)の後に、「お雇い外人」の英国人の建築技師、ジョサイア・コンドルの設計により、3年掛かりで、外国人を接待する煉瓦づくりの豪華な建物・鹿鳴館が竣工した。総建坪400坪。正面の2階にはバルコニー付きの舞踏場もあった。

亮子はここでも「鹿鳴館の華」と言われた。そんな亮子をモノにしようとする政財界の大物たちがいたが、どんなに金を積まれようと武士の娘としてのプライドが許さなかった。冒頭の写真でも美貌とともに「強い意志と気品の高さ」を感じさせる。(写真右下:夫の宗光【中央】と長男の広吉とともにワシントンで)


明治21年、亮子33歳、陸奥45歳の時、伊藤内閣の駐米公使に任命された夫とともにアメリカへ。アムトラックでロッキー山脈をこえ、ワシントンへ行き、当時のクリーブランド大統領夫妻に接見、持ち前の美貌、話術、個人的魅力で「ワシントンの社交界の華」となる。

陸奥宗光の書簡攻勢、相愛の慕情

「平家にあらずんば人にあらず」という言葉があるが、当時就職口はなく薩長出身でなければ昇進しない時代。どうあがいても上には行けず、汚職がはびこっていた。こんな所で世直ししても何にもならないと思うと不満が蓄積してきて、上の人にも
「日本人とは何ぞや」といった文書を送りつけ懸命にアピールした。

が、なかなか前にへ進まなかった。
右の写真の洋服を着ていた時には紀州政府ということで明治政府から敵視されていた。
明治11年(1878)、陸奥は反政府運動に加担した廉で禁固5年の刑に処せられた。
宮城牢獄に収監されていたとき、獄中から亮子を恋う憂愁の心情を披歴した漢詩を贈っている。


夫婦天涯別れること幾春ぞ、相思空しくもとむ夢中の真・・・


相愛の夫婦の互いの慕情を七言絶句の漢詩にして亮子に贈った。


離合は常理といへども、相思の情に何ぞきわまりあらん。
南北二つながらに地を異にするも、夫婦この心は同じ


南北に別れながらも夫婦の心は同じだと詠んでいる。


夫婦の一生はたとえば二人連れにて遠く道をゆくごときものなれば・・・


陸奥は異国においても50通を超える便りを亮子にしたためていた。
その他にも二人の愛の絆を深める多くの書簡が往復した。

陸奥は親族への愛情も驚くものがあった。それは亮子の母や姉などにも金銭的な援助をしたりしていたことでもわかる。亮子は遠く離れて暮らしていても陸奥の厚い庇護を感じ、陸奥もまた亮子と一緒にいる時一番安らぎを感じた。二人の愛情は陸奥の死によって引き裂かれるまで生涯変わらなかった。


古河財閥に養子にはいった次男潤吉はどうしたら公害を少なくすることができるか、頭を悩ませていた。あまり表面にはでてこなかったが、陸奥・古河家にとり公害は大きな問題であり、一番の眼目は日米対等条約であるが、公害の研究を息子にやらせている。亮子もこの公害問題では大いに苦悩する日々を送ったに違いない。(写真右は大磯で静養する宗光)


他策ナカリシヲ信ゼムと欲ッス


陸奥宗光は日清戦争の戦後処理に携わった日本の外相としてあまりにも有名である。
戦勝後は伊藤博文とともに全権として明治28年(1885)下関条約を調印し、戦勝国
として日本に有利な条件で終結させた。

しかし、満州を狙うロシアが、ドイツ・フランスと手を 結んで、日本に遼東半島を返還するように要求(三国干渉)した結果、清国に返還するもやむを得ないとの立場にたたされる。
「そんな弱腰ではどうするのか」。日本国民は臥薪嘗胆と口々に叫んでロシアに敵意をもつにいたったが、宗光はやむなく三国干渉を受け入れ戦争回避の決断をした。

その当時、肺結核で足が萎え、世間の人から悪しざまに言われ、悩み苦しみ、下痢や腹痛になる日も多かった。血を吐きながら脳裏に焼き付いていた心の中を、陸奥外交の備忘録として大磯の別荘で書いた蹇蹇録(けんけんろく)の中に残している。


「三国干渉を拒否すれば、この国がいかなる事態に陥るか。我が国がロシアやドイツ・フランスと 戦争ができるのか。やればぼろぼろに踏みにじられることは目に見えている。だが、せっかく多数の血を流してとった遼東半島の返還を発表すれば、愛国心で固まった議会や民衆は激怒し、世論もまた沸騰し、政府の弱腰を罵倒するに違いない」

疲れ果てた顔。すべての力を出し切った顔。「自分は正しいことをしたんだ」という信念。戦争には勝ったものの、大国の領土返還要求にはなすすべもなく、他策ナカリシヲ信ゼムト欲ッス、「他の誰が考えても他に方策はなかったことを信じてほしい」と日本国民に訴え、後世の日本人に名言を残した。

この蹇蹇録は現在も金沢文庫に現物が保管されている。
戦争に勝利しながら大国から干渉され、遼東半島を返還せざるを得ない事態を招いたのは陸奥の外交上の失敗と議会の内外で糾弾するものもいた。


伊藤博文はそんな逆風に堪え切れなくなって、病気だと言って大磯の招仙閣に泊まり続けていた。このころ小田原の滄浪閣を大磯に移すことを考え、大磯に新たに別荘を建てていた。


晩年の亮子


当時、政府の高官夫人たちは病院を作るために寄付金を集めに回った。亮子も例外ではなく、伊藤博文夫人に頼まれ、慈善バザーなどをやって慈恵医院(現在の慈恵医科大学病院の前身)の設立に協力している。


宗光と亮子は大磯の東小磯の海岸にある松林を6000坪ばかり購入し、100坪の数寄屋造りの別荘をつくった(写真右下)。亮子は3度ばかり工事を見に来ていた。夏は涼しく、冬は温暖。たいへんよい土地柄。暑さ寒さをしのぎやすい大磯の土地が気に入っていた。

宗光は大磯で亮子とともに静養を決めるが、避暑やら見舞いやらの来客が絶えなかった。亮子は宗光にこの大磯でゆっくりしてもらいたいと思うようになった。


しかし、明治30年8月24日、陸奥は東京・西ヶ原の自宅でこの世を去る。
数日たって大磯にいた亮子に伊藤博文から話があり、陸奥には冬子という8歳の遺児が婚外にいることが知らされた。

亮子はこの娘を長男広吉の養女とすることに決め、手元に引き取った。亮子は晩年、この冬子を可愛がることが日頃の慰めであったが、陸奥の後を追うように3年後に亡くなった。45歳であった。
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ご清聴ありがとうございました。 .

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